昨日の続きみたいになるけど、日本人は無宗教だなんていわれることも多い。
それについては、いろんな見解があるようだけど、もともと日本人は自然宗教というのか土着の神さまを信じてきたから、そこには儀礼はあっても教義というものはなかった。
でも、そこに仏教やキリスト教のような宗祖の教義がある創唱宗教が入ってきて、文化や信仰に影響を与えてきた。
キリスト教は、文化的には影響があったけど、信仰という意味では少なかったけどね。
仏教はそれに比べると文化においても信仰においても、日本人の中に圧倒的に溶け込んできた。そして江戸時代には檀家制度も確立し、どこかのお寺に必ず組み込まれるようになった。
それで長くなるから途中は省くけど、明治維新政府の神仏分離令の後、廃仏毀釈が起きてしまったけど、お寺がなくなったわけではなく、その後も存続している。
キリスト教も初めは禁止だったけど、対外的な面もありすぐに解禁されている。
明治憲法では、皇室の祖先を神として祀る神社神道(国家神道)を「神社は宗教にあらず」という解釈にして、実質的には国教にしていた。
ただそれは宗教ではないとされるから、一応信教の自由はあるように書かれている。
でも実際は国家の定める儀礼に参加したうえで、神社神道の妨げにならない限りの信仰なら許すという感じだったようだ。
なので現代の信教の自由とは意味がかなり違うよね。
そもそも神社は宗教にあらずとしながら、国教のように扱ってきたことが矛盾するとも指摘されている。
ちなみに、神社神道以外の神道系の黒住教、金光教、天理教とかは教派神道と呼ばれ、宗教であるされた。
なので神道も、明治政府は祭政一致だけどその祭祀を司る宗教ではない国家神道(神社神道)と、政教分離された宗教としての教派神道があったことになる。
そういう背景で、今の日本人は、お葬式は檀家制度の名残でお寺に頼み、神社も神仏習合が亡くなった後も、国の庇護のもと地域の信仰の中心だったので、今でも初詣などはほとんどの人が行くし、地域の祭りにも参加するところが多い。
結婚式も、今は教会でやる人も増えたけど、多くは神式で行われる。
だから、文化や生活の節目に信仰の名残が残っているけども、特に創唱宗教に入信していなければ、無宗教と答えるのも無理もないのかなと思う。
実際に神様を意識して生活するなんてことは、一部の地域を除けば、普段はほとんどないだろうからね。
病気で死にそうになるとか、辛いことがあった時とか、誰かが亡くなった時とか、子供が生まれた時とか、多くの人にとっては、そんな時にチラッと思うくらいなのかもしれない。
しかし特別に神様を思うことがないからといって、神を求める気持ちが無いかというと、そこまではわからないと思う。
たとえば誰にでも良心が多かれ少なかれあると思うけど、善なることをしたいと強く思う心の中には、神様を求める気持ちがあるように思う。
善悪の基準は時代や環境や地域で多少変わるけど、人殺しや盗みはみんな悪だと思うだろうし、困ってる人や弱い人を見て助けてあげたいという慈悲の心は、いつの時代でも変わらない善なる価値観だと思う。
愛に基づく義の心とか友情とか勇気とかに、昔から変わらず、みんな喝采を送ってきたと思うし、裏切りや、虐待、冷酷、残酷な行為、殺人、強盗などには、みんな不快感を感じてきたと思う。
だから善悪の基準が人間の心の中にはあると思うし、もし悪を憎み善を求めるのであれば、そこは神様を求める気持ちと、ほぼ同じなのかなと思ってしまう。
なぜならその善の部分こそが神さまの局面の一つであると、ワールドメイトで聞いたから。
善を求める気持ちは、神様を求める気持ちの表れなのかなと思った。
同様に、真や美を求める人たちも、実は神さまを求めているのかなと思う。
真善美は人間の理想とされるけど、それは、神様が真善美の局面を持ってるからだと思った。