ワールドメイトで、慧能禅師の風幡問答の話を聞いたことがある。
これは、無門関という説法集にも載っている有名なものだ。
その慧能禅師というのは無学文盲だったけど、達磨大師を初祖とし、その法を継承する禅宗の六祖にまでなった中国の偉い禅の僧になる。
その宗風は、のちに南伝の禅宗と言われるようになり、そこから中国での禅宗の隆盛へとつながっていくから、中国禅の元になった人でもある。
で、風幡問答の内容になるけど、ある二人の坊さんが、旗が風にひらめいているのを見て、
「旗がひらめいている」
「いや旗ではなく、あれは風がひらめいているんだ。風がひらめくから旗がひらめいているんだ」
「違う、旗がひらめいているから風があるのがわかるんだ」
と、風だ、旗だと、言い争っている二人を見て、慧能禅師は一言、
「ひらめいているのは、お前らの心じゃ」と、いうようなことを言ったそうだ。
なかなか面白いことを言うなあと、感心したものだけど、これが禅の説法として語り継がれてきたということは、そもそもこれを聞いた二人の坊さんが納得し、心に悟るものがあったからだと思う。
理屈で、風がひらめくとか旗がひらめくとか、そういうことで言い争っているけど、二人の心がひらめいていることが問題だと指摘することで、何かを悟らせようとしたのかもしれない。
本当の意図はよくわからないけど、慧能禅師の問答には好きなものが多い中で、これは、特に大好きな問答だ。
会社や、学生の頃の部活や、あるいはワールドメイトでも、人がたくさん集まるところでは、人間関係や運営のことで、ああでもないこうでもないということが、折々に必ず起きると思う。
そんな時、この問答を思い出すことが多い。
特にワールドメイトに入会して思うのは、ワールドメイトは普通の一般社会の組織に比べると大した問題は無いけども、それでも葛藤するとか、悩んだりする人はいると思う。
そういうのを見てると、ほとんどは、この問答の意味を知れば解決するような気がする。
つまり、あることに対して、これはこうでないといけない、いや、ああでないといけない。みたいに意見が対立したり、考え方が違う場合、往々にしてその事柄自体は大したことではないのに、心が揺れてしまい、感情が乱れることが原因で、それが良くない結果を招いたり、苦悩やストレスにつながって、余計な問題になっていくのだと思った。
そんな時に、もし慧能禅師のような人が一人いれば、すぐに解決しそうな気がするけどね。
何か問題が起きた時というのは、その事柄が大きな問題のように思えても、それに関わる人間の心しだいで小さくも大きくもなるものが多いと思う。
この風幡問答は、本当の意味は違うところにあるのかもしれないけど、自分の中ではそういうことを教えてくれているのかなと、いつも思う。
と、言いながら、自分も会社では些細なことで心が乱れることがあるから、偉そうなことは全然言えないけどね。
ただ、なぜかワールドメイトの支部では、それほど心が乱れることはなくなった。何か問題が起きたように見えても、それ自体の善悪がどうのこうのではなく、それに対して、自分がどういう行動するのかが大事だと思えるようになったからかもしれない。
問題というのは、逆にありがたいことだなとさえ、最近思えるようになってきた。
問題というのは、全部自分を磨くための材料であるとは、ワールドメイトで深見先生も言われていたような気がする。
もちろん、自分一人で解決できない複雑な問題や、心の持ちようだけでは解決しない問題もあるから、そういうものは、しかるべき人と相談しながら、現実的な解決策を考えると思う。
でも、ほとんどのものは、自分の心が揺れ動かないでしっかりさえしていれば、なんとでもなるのかなと、最近は思うようになった。
最低でも、何があっても自分を落ち込ませない、自分を不幸にするような考え方をしない、そして何もせずただの批判屋にもならない、ことが大事だと思う。
そうしないと、神様に祈っても、あまり良い結果にならなかった。
だから、そういう努力をしてこそ、神様の守護もあるのかなと実感している。
深見先生も、
「どんな環境におかれても、それを神に感謝する心を先に立て、困難を乗り越えていく覚悟を決めて精一杯の努力を尽くしている時、背後霊団もこぞって応援し、今までの過去の全てが生かされ、今の環境が未来に生きるように神は仕組まれます。これが、未来の自分が豊かで幸せになる秘訣です。」というようなことを言われていた。