一緒に行ったワールドメイト会員も言っていたけど、今回の明るすぎる劇団東州定期公演は、深見東州先生の歌の出番が多くて、最後の最後にアンコールに応えて歌われた時は、一瞬、「コンサートだったかな」と、わからなくなってしまうほどだった。
ただ「民宿」以外の3演目は、以前に上演された演目だったので、新演出のおかげでまったくの新作のように観劇できた気もする。
そして演技にも気合が入っていて、セリフを聞いて引き込まれてる感じがした。
最後のバッタに抱かれての、バッタに恋する女性の演技には、特に鬼気迫るものを感じた。
そうしたら、終わった後の深見東州先生の解説で知ったけど、前日にその女性にトラブルがあって、足が痛くて歩けなかったらしい。
普通なら大変だけど、それを乗り越えたところの迫力の演技だったようだ。
だから、いつにもまして演技に魂が宿っていたんだろうね。一緒に行ったワールドメイト会員も、同じことを感じたと言っていた。
そういうアクシデントが起きると、かえって緊迫感があり、演技も冴えるのかもね。
それで深見東州先生が言われるには、演劇というのは、初日が一番出来が良いらしい。
初日が成功すると安心して、2日目からは、どうしても緩んでしまうからのようだ。
それが最終日になると、これで最後だからと気合が入って、また良くなるらしい。
それが演技者の自然な気持ちなんだろうね。
明るすぎる劇団東州の定期公演になると、初日と最終日しかないけどね。その場合は、やっばり初日になるのかな〜。
それにしても深見東州先生は、次から次へとスケジュールが続く中で、その一つ一つの内容においても、より負担が多くなることを自ら選択されている。というか、その方が素晴らしくなるからというので、あえてチャレンジされているようだ。
来た人に楽しく面白く喜んでもらうためにと思って、どこまでも万端の準備をされるわけだけど、この妥協を許さない、どこまでも進化し続けるところが、さすが求道者としての姿勢なんだろうね。
そういう人間としての生き様を、ワールドメイト会員にも、自然と教えられているのかもしれないけどね。
だから一見何事もなかったように、簡単にされているように見えるけど、特にワールドメイト会員ではない人たちの目にはそう映るかもしれないけれど、本当は命がけの血の滲むような努力の毎日があるんだと思う。
そういう大変な努力の痕跡は人に見せられないから、つい簡単にできているかのように、あたり前のようにできると思ってしまうけどね。
本当は真剣勝負に生きて、どれだけ世の中をよくできるかに賭けてあるんだけどね。
そのための過酷な努力から滲み出てきたのが深見東州先生の歌であり、演技であり、またはサミットのような議論や運営であり、ゴルフの支援活動や福祉活動だと思うからね。
そこまで感じている人は、一部のワールドメイト会員くらいだろうけど。