深見東州先生が、ワールドメイトでお取り次ぎされる内容は、とても言葉で言えないようなスゴいものと理解しているつもりだった。
でも、昨夜のワールドメイトでの深見東州先生のお話を聞いて、自分で思っていた以上に、そんな生易しいことではないんだなと新たに感じるものがあった。
そもそも神様のお取次は繊細微妙なものなので、他ではたとえようがないものかもしれない。
先日の深見東州先生のラジオ番組でもお話しされていたけど、作家の瀬戸内寂静さんは、小説を書く前にはたくさんの小説を読みまくることを、何日も続けるそうだ。
そうやって、小説家が苦しみながらも良い小説を生み出してきたエネルギーを、たっぷりと吸収しているようだ。
そうすると、ある時から一気に奔流のごとく書き始めることができるようになるらしい。
深見東州先生も著作を書かれる時は、やはり1日20時間ぐらいの読書を7日くらいすると、一気に書けるようになるそうだ。
すさまじいなと思ったけど、それくらい文章を書くというのは、エネルギーがいることなんだなと思う。
その気にならないで書いても、胸を打つ文章にならないし、人から評価されるものにはなりにくいそうだ。
そういう読む人の期待とか、書くものの責任とか、いろいろなものに答えようとすれば、そこまでやっていかないと書けないのだろう。
作家によっても書き出すまでのスタイルは違うだろうけど、そこまでやっても良いものを生み出すのは大変だから、作家で自殺してしまう人が出るのだろう。大変な世界だなと思う。
文章を書くのでも、そこまでの苦しみや何かを超えてやってるわけで、でもワールドメイトの神様のお取次になると、そういうものとも違う、更に繊細な次元になっていくようだ。
それはもはや常人の理解を超えるものかもしれないことだけは理解できた。
そこのところを、これからはもっと感謝して、ワールドメイトの祭事に参加しよう。