深見東州先生の書画展も今年で19回目、毎年開催されているから、来年で節目の20回目になる。
なんでもそうだと思うけど、20年継続するというのは、並大抵のことではないと思う。
たとえ大好きなことであっても、20年間続けるのは困難なことが多いよね。
ましてや深見先生の場合は、たくさんのことをしながらの中で、毎年絵画や書の作品をあげられているわけだから、単なる趣味の次元でやっていたら忙しいからというので継続するのは不可能だったように思う。
そのこともスゴいことだけど、深見東州先生の絵画が年々進化していることも、ホントに恐るべきことだなと思う。
ワールドメイト会員だから、ひいき目で観ているとかではなくて、こんな絵画を書ける人は、世界中探してもいないと思うからね。
ただ残念なのは、絵画というのは自分のような素人がどんなに良いなと思っても、美術界で認められないと、なかなか世間には真価が伝わっていかないのかなと感じる。
そこは今後に期待したいところだけど、最近、深見先生の絵画を高く評価する専門家の人が、1人、また1人と増えている気がする。
一番最初に深見東州先生の作品を高く評価した専門家は、求龍堂という美術専門の出版会社で編集長をしていた松井武利さんという方だそうだ。
その人は、絵画の巨匠には、3つの要素があることを教えてくれた人だ。
深見先生を「純粋・素朴・稚拙である。上手く描こうとか、入選しようとか、賞を取ろうとしない。特に稚拙という面ではゴッホ、ゴーギャン、棟方志功に匹敵する。普通、他人に自分を訴えようとする。しかし、深見氏は大衆を取り込んでボロが出ても出なくてもやってしまう。一流の芸術家だ」と評価されていた。
絵を上手く描こうとしないというのは、ものスゴいことだなと思う。
ルネッサンスの頃の有名な画家の絵は、超絶的な技術で書かれているなと思うけど、近代美術史に出てくる画家になると、上手く描こうという感じではない作品が多くなる気がする。
セザンヌは、その近代絵画の父と言われているけど、それはのちの有名な画家たちがセザンヌの影響を受け、セザンヌを尊敬していたからだそうだ。
そのセザンヌは当時の美術界の中心だったパリのサロンで9回連続落選するなど、絵が高く売れるようになったのは晩年になってからだったらしい。
セザンヌの革新的な技法も、認められるまでに時間がかかったんだね。そして、後の世になってさらに高く評価されるようになった。
それから、松井武利さんに続いて、美術評論家のワシオ・トシヒコさんという人が、深見先生の作品を高く評価し、深見先生の画集にも長い解説を書かれていた。
月間ギャラリーという美術誌でも連載されているけど、その月間ギャラリーも、2年間くらい深見東州先生の絵画を表紙にしていたくらいだから、かなり惚れ込んでいたんだろうと思う。
ワシオさんは、「東州画のもっとも正当な鑑賞法は、これまでの一切の絵画への先入観を捨て去り、無警戒、無防備に関わること」と言われていたそうだ。
自分のように先入観がない素人の方が、深見先生の作品を理解するには良いのかもね。でも知識がなさすぎるのもマズイかな。
それから、やはり美術評論家の勅使河原さんという人も高く評価している1人で、深見東州先生が美術系大学で絵画を学んでない来歴を欧米のグラフィティアーティストに重ねつつ、「アジアがその特質ともいうべきおおらかさや調和性を十分に保持したまま実現させた、全く別種の新しいグラフィティアート」と述べていた。
最近知った、名古屋覚さんという美術ジャーナリストは、深見東州先生のことを胡散臭いと思っているのか認めたがらない美術界の一部に対して、「普通に受け入れられ、褒められる程度の表現に、本物の革命を引き起こせるはずがない。本当に新しく、面白い絵画その他の芸術表現というものは、胡散臭くて当たり前なのである」と評論しているそうだ。
斬新な絵画を描いていた画家たちの中には、生きてる間より、亡くなった後に評価が高くなる画家もわりといたよね。
今までにない型破りなものは、すぐには受け入れずらいものがあるのかな。
絵画の手法は現代において、あらかた出尽くしているという話も聞くけど、深見先生のはどれにも当てはまらない気がするからね。
西洋画も日本画も中国画も優れた画家から学んだ上で独自の世界を築かれ、今後も周囲に関係なく進化を続けていかれるだろうから、世間に真価が問われる日も近い気がしているけどね。
今年の書画展は以下のようなスケジュールになってるから。