人間って面白いなと思うのは、ふだんは無神論で、神様とか、あの世の世界とか、非科学的なものは信じないという人が、究極に困ったことが起きたりすると、神様~って祈ったりする。
あるいは、験を担いだりする人もいるよね。
最近運が無いとか、ツキに見放されてるなんてことは、当たり前のように言っていたりもする。
運不運は、宗教的な分野では普通に語られるけど、科学的な根拠は無いから、なんだか矛盾してるよね。
究極は葬儀になるのかな。お葬式はほとんど宗教的儀式になるし、安らかにお眠りくださいとか、ご冥福を心から祈っています、などと言うよね。
死後の世界で安らかに過ごしてほしいという願いだよね。
それから晩年を迎えて、自分の死が近づいてきたときに、宗教的なものに目覚める人も多いらしい。
深層意識は、神仏の存在をわかっているから、何かの節目になるとそれが出てくるのかな。
それで、アメイジンググレースの作者のように、それまでは信仰心がなかったけど、嵐で船が転覆しそうになった時に心底神に祈り、それで奇跡的に助かった経験を持つような人ならともかく、祈ったけどもなにも叶わなかった場合は、ますます信じなくなってしまうかもね。
神仏への崇敬の心や信仰心がない人が、いきなり都合の良い時だけ祈っても叶わないのは、ある意味当然のような気もするけど。
だけど信仰心があったとしても、長年神仏に帰依していても、願いが叶ったことがないという人も多いようだ。
信仰は、自分の願いを叶えるためのものではないから、別に願いが叶わなくても、それはそれでいいけどね。
宗教によっては、神様に自分のことを願うのは、間違っていると言う人もいるし。
とはいえ、日本ではお寺や神社で祈祷してくれるところも多い。
ワールドメイトでも、救霊や祈祷などが行われている。
そしてワールドメイトはもちろんだけど、神社やお寺でご祈祷をしてもらって、良いことが起きた人はとても多い。
その反対に、昔は呪いを行うような祈祷師もいたらしいけどね。今でもいるのかもしれない。
「呪術廻戦」なんか、どうみても、それをヒントに作られているよね。
まぁ、そちらの世界のことは置いといて、基本、良い証を出したいと思っているのが、日本の神仏だと思っている。
で、ようやく本題になるけど、いくら日本の神様や仏様がご利益を人々に与えたいと思っても、許された分だけしか与えることはできないし、救うことはできないと、ワールドメイトでは言われている。
ご祈願料を納めてご祈祷をしたからといって、ウィン・ウィンの関係でご利益をもらえるわけではないんだよね。
許してもらえた分だけ、救われたり、証が出てくるのが本当だから。
じゃあ、許してもらえるにはどうすればいいの?となるけど、それは、ふだんから真心で善行をおこなうことが大事になる。
ワールドメイト会員には、よく体施・物施・法施の話をされるけどね。
善行が徳となり、徳が福となる。その逆は、悪行が業になり、業が禍になってしまうけど。
徳を積んだ分だけ許されて、ご利益となって現われる感じかな。
それで、神社やワールドメイトで御玉串を出してご祈祷をしてもらう場合は、物施の徳を積んだことになる。
物施の徳を積んだ分、許されてご利益となって現れる。昔は、お金の代わりに物とか農作物とかを奉納したようだけど。
自分にとって、とても大事なものを奉納するから、その覚悟が神様へ向かう本気度であり、誠の表れになるよね。
そして実際に奉納したお金が人々の役に立っているから、徳を積んでいることになる。
しかし、ここで一つ大きな疑問が出てくるんだけど。
それは、神社でもワールドメイトでも、御玉串を奉納すると言っても、数千円からせいぜい数万円だよね。
ワールドメイトでは数百円からできる祈祷もあるけど。
もちろん数千円でも数万円でも、バカにならない大事なお金なんだけどね。
ただ、たったそれだけで、自分の大事な願い事が叶うというのは、どう見ても釣り合わない気がするけどね。
事業繁栄のための新規取引先の開拓とか、営業で大きな契約が結ばれるとか。
難しい病気が改善されたり治ったりとか。
見込みが薄い相手とお付き合いできるとか、結婚ができるとか。
職場や学校で酷いイジメにあっていたのが、全くなくなるとか。
そんな願いが数千円とか数万円で叶うのであれば、逆に理不尽というか、おかしい気がするよね。
数千万とか、数百万とか寄付するのならまだわかるけど。
実際に何億とか、そんな莫大な大金を人々のためにと、チャリティに寄付する人も、世の中にはけっこういるよね。
そんな人は、やはり良い人生を全うしているように思える。みんなとは言わないけど。
ただ普通の人には、そんな大金を出すのは無理だし。
そして普通の人ほど、数千円とか数万円を奉納して、それで思ったように願いが叶わなくて、それを不満に思う人もたまにいるけどね。
まぁ、別に叶わなくても、そんなもんだろうと思う人の方が圧倒的に多いとは思うけど。
それも寂しい気がするけど、というかもったいない気がする。
それでワールドメイト会員の場合、自分も、信じられないような証をもらった一人だけど、びっくりするような証が多くの人に出ている。
それは深見東州先生が、奉納されたお玉串の最低でも10倍100倍ものご神徳が現れるようにと、真摯に取り次いでくださることが大きいのかなと思う。
それに加えてワールドメイトでは、神様への向かい方について、かなり細かく教えてもらえるから、それも大きいと思う。
もちろんふだんから、ワールドメイトでは体施や法施の徳が積める機会も多くあるから、そこも大事な部分かもしれない。
神様に向かう祈りに関して少しだけ書くと、ワールドメイト会員は、関係する周りの人々への具体的な愛の祈りを欠かさない。
救霊を受けるときは、先祖や祟りする霊に対しても愛で救いくださいと祈ることの大切さを知っている。
その前に、神様に対する報恩感謝の祈りを日々捧げているけどね。
救霊を受けるときは、受ける機会をいただいたことに感謝の祈りを捧げる。
さらに言うと、先祖代々、また自分の前世、今世積んできた刧や過ちをお詫びし、改心の心で許しを乞う祈りもしている。
救霊を受けるときは、先祖が犯した罪穢れを、先祖になりかわってお詫びする感じかな。
そうやって神様に対して向かうと、その分だけ奉納するお玉串が輝き、神様がその祈りを受け取られて、何倍もの救い難い業や罪穢れが許され、証が出るように感じるけどね。
この先祖の犯した罪穢れというのは、直近の先祖であればまだしも、昔のことになると全くわからない部分はある。
それでも自分の家系や親戚縁者の状況を詳しく見ると、なんとなく業の傾向がわかったりもするけど。
そもそも何の刧も無いという家系は皆無だと思うし、前世や前前世で刧を全く積んでない人など、ほとんどいないだろうからね。
それをよく理解して自覚していると、自分なりの精一杯のお玉串を奉納したとしても、それで自分の思い通りに変わらなくて不満に思うなんてことはないと思う。
いずれ徳が積み重なってくると、必ず良くなっていくと信じていれば、実際にそうなってきた。
少し話が変わるけど、キリスト教には原罪という概念があるよね。
イエスはその罪を代わりに背負って生まれてきたから、そのイエスを信じることで罪が許されると聞いたことがある。
まぁ、少々むしがよい気がするんだけど。
それで神道には、罪穢れを禊祓いして再生するというものがある。
単なる儀式ではなく、神様に許しを乞うて宣り直すわけだよね。
深く改心して行いを改めることで、日本の神様は寛容なので、罪穢れをある程度許してくださる。
ただし積んできた刧までが、全てなくなることはないから、その分は苦しまないといけないけどね。
それでも明るい救いがあるのが神道の良いところになる。たとえ刧が深い家に生まれたとしても、救いが無いわけではないからね。
ワールドメイトに入会してからは、そんなことを強く感じる日々なんだよね。