ワールドメイトでは、たまに「迎えず送らず」というお話をされる。
とてもいいお話だけど、それと関連するようなお話を、先週の「深見東州のぜんぶ私の歌、ぜんぶ私のお話」で、お話されていた。
人間に喜怒哀楽があるのは当然なんだけど、神仏にも喜怒哀楽があって、怒ったり悲しんだりされているそうだ。
でも人間との違いは、鏡の心にあるそうだ。鏡の前で笑っていると鏡にも笑った顔が映るけど、そこを離れるともう鏡は元の鏡になっている。
人間は喜怒哀楽の感情が、なかなか忘れられないけど、神仏はいつまでも怒ってないし、いつまでも喜んでいないし、すぐに忘れて切り替えることができるそうだ。
つまり、いつまでもその時の感情に囚われないということだよね。一時は心に感情があっても、鏡の前を通り過ぎたら怒った顔も消えてしまうように、パッと心を切り替えることができるのだろう。
これもワールドメイトで聞いたけど、囲碁の名人とそうでない人の違いは何かというと、名人はミスをして打ち損じても、パッと心を切り替えて動揺せず、平然とその後も何事もなかったかのごとく冷静に指していける。
でも普通の人は、ミスすると動揺してそこからどんどんと崩れてしまうと、ある囲碁の有名な人が言っていたそうだ。
失敗してどうしようという気持ちが、ずっと尾を引いているわけだよね。だから目前のことに集中できないし、心が不安な分、戦局がマイナスに働いてしまうのだろう。
これは囲碁でなくても、いろいろなことに当てはまる事柄だと思った。
何か嫌なことがあると、それが気になって気になって、他のことに手がつかなくなることがよくある。これも同じことだよね。
鏡のような心を持っていたら、もう通り過ぎたことに関しては、さっきまでは気になっていたとしても、すぐに忘れてしまうことができる。
心を切り替えることができるというのは、これは大事なことだよね。
人間はなんでも記憶しておけばいいというものではないし、忘れた方がいいことも多い。そうしないと、ストレスで死んじゃうよね。
ミスはどんなに優秀な人でも、そうでない人でもするわけだから。
まぁ、忘れては困ることまで、すぐに忘れてしまうようでは、それは別な意味でまずいけどね。
そうして鏡のような心でいれる人は、深見東州先生がワールドメイトでたまに話される、氷川清和にある勝海舟の、いつも明鏡止水の心で外交に臨むので、私は外交交渉に失敗したことがないというような、そんな人になれるのかもしれない。
明鏡止水で臨むというのは、一応基本的な考えは持っているけども、あらかじめこうしようああしようではなく、何も考えないで、明鏡止水のような気持ちで相手に会うという意味らしい。
そうすることで、相手が言うことに柔軟に対応ができるようになるそうで、それを外交交渉に失敗したことがないと言ったのだろうか。
荘子に「迎えず、送らず」という言葉があるけど、まだ起きもしないことを思い巡らして、ああすればいいのか、こうすればいいのかと心配したり、過ぎ去ってしまった過去に囚われてああすればよかった、こうすればよかったと思うのは止めようということでもあるよね。
來もしないことを迎えて心配したり、過ぎ去ってしまったことに心を送って悔やんだりするなという意味になると思う。
それで禅宗では、刻々に変わる只今を見るんだということで、臨済禅師の即今目前聴法底という言葉にあるように、今、目前でワシの法を聞いている、お前のその心の底は何じゃ〜と迫っていたわけだよね。
昔の禅の修行者は、そこまで追い込まれて、鍛えられていたんだろうね。
だから、禅の無学祖元に鍛えられた北条時宗が、元寇で鎌倉の武士が右往左往している時でも、全く怯むことなく、余計なことを思うことなく、鉄の肝っ玉のような意志で率いることができたんだろう。
まぁ、そこまではなれなくても、せめて喜怒哀楽の感情にいつまでも止まらずに生きていけるようにはなりたいものだと思う。
そうすれば、とっても自然体で素敵な人になれますよと、深見東州先生も言われていた。