今回の明るすぎる劇団東州定期公演では、深見先生が演劇の創作を続けられる理由も言われていた。
ストーリや演出というのは、ありがちなものではなく、また、先が読めるような内容ではいけないと言われていた。
短歌でも、5・7・5・7・7の、77のところに意外な展開があり、ありがたなパターンでない短歌が芸術的価値があるそうだ。さらに短歌の場合は、言葉調べも大事で、詩心があり、その人にしか詠めないようなものが素晴らしいということだった。
だから、演劇もそういうものが面白いし、芸術性があると言われていた。
ところで深見先生が、その悪い例えとして、いきなり「進撃の巨人」の実写版映画の批評をされたのは面白かった。確かに、あの実写版は、自分も前編だけは借りて見たけど、後編までは見る意欲がなくなったからね。
脚本もキャストも演技も、ちょっとねぇ、という感じに思った。石原さとみのハンジだけは良かったけど。
話を戻すけど、深見東州先生のお話によく出る、稲盛和夫の成功するビジネスマンのお話に、まずライバルに打ち勝つ闘争心、次が持続的な創作性、そして商売のセンスが必要というのがあった。その持続的なクリエイティビティーという部分は、演劇においては、ありきたりでないものを創作し続けることに通じるそうだ。
そういうクリエイティブなものを、ずっと生み出し続けるために、そういう人間でありたいために、演劇のような芸術性のあるものに時間を費やし、大切にしていきたいと言われていた。
これが、深見東州先生が演劇を続ける、毎年何か新しいものを生み出し続け、創作を続ける一番の理由のようだ。
それで、今回のような「残酷な天使のナットウキナーゼ」と、「へそ」という2つの演目が誕生したんだろうね。
「へそ」の方は、スケールが最後は宇宙大にまで広がる物語だった。
でも、最初はへそという小さな部分から始まった。その極小から極大までのストーリー展開を通して、神様とかなんとか言っても、大きな神様になるほど、実は卑近なところに出てくるんだよ、ということを表しているそうだ。
事業家でも、本当に大きなことをする人は、ものすごく細かいところもできるそうだ。
たまたま、宇宙がどれほど大きいのかが納得できる動画を見たけど、宇宙から見ると、地球なんてどこにあるのか探し出せないくらい小さいのに、そんな小さな地球にも、宇宙創造の神様の働きが行き届いているわけだから、確かにそうだなと思う。
また、この物語には、加齢臭が酷いお爺さんが出てくるけど、人の縁を結ぶ幸せのキューピットは、必ずしも可愛い天使とは限らず、そんな老人臭のするおじいさんだったりすることを表現しているそうだ。
ああでもないこうでもないと、人間が試練の中で葛藤する中で、病気や苦しみを通して人間の優しさに目覚めて縁が結ばれるというのが、神なるものの働きであり、それは、そんな加齢臭のする老人がキューピット役だったりするんですよということだ。
だから、そんな人を侮ったり、馬鹿にしてはいけないんだね。
立山信仰の姥尊なんかも醜い姿だけど、女性の苦しみを救ってくれる神様だからね。
神様というのは和光同塵で、変な姿で出てくることがあるそうだ。
光明皇后がライ病患者の膿を吸い取ったら阿弥陀如来の化身だったというのも、そういう姿で仏様は出てくるという仏説に基づいて、そういう伝説が残っているようだ。
なるほど、そんな深い意味が、あの「へそ」という物語に秘められていたとは、深見先生の解説を聞くまで気がつかなかった。
それでは夕刊フジに、今回の公演のリポートが掲載されていたので、それを最後に紹介しようかな。
深見東州先生のパントマイム「甲殻機動隊」エビシリーズ、カニシリーズのことが、とても詳しく書かれていた。
これを書いた記者は、はじめて深見先生のパントマイムを見たそうで、次のように感想を書いている。
「記者が思わず笑ってしまった場面は一度や二度ではない。団長自ら仕草と表情だけで爆笑を誘う姿は、まるでチャップリンやバスターキートンの良質なサイレントコメディー映画を見ているようだ。観客の中には、このパントマイムを目当てに来る人がいるそうだが、その気持ちも今ならよくわかる。」
そういえば、去年はウタントマイムだったので、いつものチャップリン風の格好をされてなかったけど、今回も写真のように変装はされてなかった。
あくまで、カニやエビ、そして漁師やニワトリになりきって、コミカルに演じられた。
魚介類シリーズのモノマネは、深見先生の得意とする芸だけど、甲殻類の芸は初めて見た。
特徴を的確に演じる観察力と、体の柔らかさと、人間以外の生物になりきる深見先生の自在性があってこそできるパントマイムなんだろうね。