古事記に、「此れの鏡はもはら我が御魂として、吾が前を拝(いつ)くがごとく、斎(いつ)き奉れ」と、天照大御神が瓊瓊杵命に言われた言葉がある。
この我は、当然1人称だと思うので、この鏡を(私)天照大御神様と思って拝せよ、という意味になる。でも、この我を2人称の我、という意味にとる説もあるそうだ。山陰基央という人の説だったかな?
古神道には自霊拝という、自分というものを拝するごとく、自らの魂を鏡を見て拝するという行法があるそうだ。
自分というものを拝するごとく、鏡を見て拝するというのは、自分の中にも神様の分魂があるということになるのだろう。
つまり、鏡に向かって自分自身の心の中にいる神様を拝んでるわけだよね。
だけど、心の中に怒りとか憎しみとかがずっとあると、心の鏡にその歪んだ残像が残っていくので、鏡はどんどん曇っていき、神様を写すことができなくなるというような話を、ワールドメイトで聞いたことがある。
それだと、鏡に向かって自分の中にいる神様を拝んでいるつもりでも、そうなってないよね。
だからそういう時は、パッと気持ちを切り替えなくてはいけないんだろう。
しかしそうはいっても、人間というのは頻繁に腹をたてるものだし、人を恨んだり、妬んだり、憎んだり、いろいろしていまうのが常だよね。
ワールドメイト会員は、愛の大事さをよく知ってるだけに、そういう歪んだ自分の感情が抑えられないことに悩む人もいる。
まぁ、相当ひどい性格なのに、何にも気にしてない人も世の中にはたくさんいるので、それよりもいいのかなとは思うけどね。しかし、中にはそういうことを真剣に悩んで、かえって苦しむ人もいるから、それはよくないよね。
だからそういう人に対して、ワールドメイトで深見東州先生が言われるのは、嫌なことをされたら恨んでもいいし、腹が立ったら怒ってもいいです、妬みたかったら妬んだらいいですよと。それを抑制しすぎると、かえってストレスになってしまい病気になったりしますよと言われていた。
そして、それをいつまでも恨まなければいいと。いつまでも怒ってなければ良いと言われていたと思う。つまり、いつまでも後に残さないというのが大事なんだそうだ。
人間だから、どうしても恨んだり妬んだりはあるわけで、その感情を出さないようにするといっても無理だから、いつまでもそう思わないようにすればいいんだね。それだったら、訓練次第でできそうな気がしないでもない。
だから恨んだり、憎んだり、妬んだりした時は、それを後悔している暇があれば、それより早く心を切り替えるようにする方が良いようだ。
この感情をどうしたら抑えられるかとか考える暇があれば、気持ちは暗いままだし、重いままだし、うまくいかない。なかなかそこから抜け出せそうにない。
それより、パッと気持ちを切り替えて、目の前のことに集中するとか、何かをやっていた方が、ずっと自分のためになるし、どれだけ発展的な気持ちになれるかわからないよね。
鏡に映った歪んだ顔も、鏡の前を通り過ぎれば鏡に歪んだ顔が残らないように、いつまでも感情がそこにいないで、通り過ぎてしまえばいいんだよね。それが鏡の心というものなんだろうけど。できるかなぁ?