最近また、霊璽の証しコミックが流れているけど、読んでると共通のものを感じる。
自分の願いを叶えてくれよというような、欲望をぶつけるんじゃなくて、どこかにまわりの人のためにとか、相手を思って相手の幸せを願って書いているのが多い気がするね。( ̄∇ ̄;)
自分もすぐに証が出たときを考えると、そういう気持ちで祈ったあとだった気がする。
何時もそういう気持ちで祈れればいいんだけどね。
これが実際になると、なかなかできない。( ̄。 ̄) ・・
これがつねにできる人は、神様を動かすかなりの達人かもしれないね。
頭でわかっていても愛の思いは出ないし。
愛は理屈や観念ではなく、愛という情感だからね。
それをいつでも出せるようにするにはどうすればいいんだろう。
そういう気持ちになるまで待ってると時間がかかるしね〜。
いったいいつになったらそういう気持ちになることか。
不愉快な気持ちの時だったら、いくら待っていても当分出てきそうにないからね〜。(〜_〜メ)
やっぱりそれだけふだんの生活は、俗界の気にまみれているわけだね。
それをぱっと切り替えるには、やっぱり言霊の工夫がいるんじゃないかと、最近気がついた。
例えば文学でも小説でも、いいものは読んでいて登場人物の気持ちが痛いほど伝わってくるよね。
そういうたくみな表現と、情景が浮かぶような細かな描写があるから、読んでる人間に伝わるんだろう。
それが憎しみや怒りなら、読んでる方もアンマリ気持ちがいいものではないけどね。( ̄△ ̄)
でも相手を思う愛情や、義にかられての行動だったりすると、とっても感動してしまう。
ということはお祈りするときも、そういう文学的な表現で、具体的なわかりやすい表現でお祈りできれば、きっと神様も感動して聞いてくれると思う。
そのまえに自分自身が自分の祈り言葉で感動し、いい思いで満たされてないといけないけどね。
逆に言うと表現力が乏しいと、せっかくいい心があっても、神様にも人間にもしっかりと伝わらないよね。
黙っていてもその人の内面の素晴らしさが相手に伝わる場合は、よほど行動の面において、ふだんからそれだけの内容を実行している場合だけだから。
それでもそこにさらに言葉が足されると、一層素晴らしく相手に伝わるだろうし。
本当は両方揃えばそれがベストだろうけど、お祈りに関しては言葉の力や表現力が勝負だからね。
祈る自分自身に愛情があふれ出てくるような、そういう祈りができるような文学的表現力を磨かないといけないんだろう。
霊力は国語力に比例すると言われていたからね〜。d=(⌒^⌒)=b
byあんこ