ワールドメイトの氷見での正月神業も終わり、今年1年の指針もいろいろとわかってきた。
具体的にはこれからだろうけど、今年は昨年以上にすごいことがたくさんあるんだろうなと予感するお話もあった。
どこまでも進化し続ける深見東州先生の活動に、今年もついていけるようにしたいなと思う。
いま、北陸では最強寒波の到来で、ドカ雪になってるそうだけど。
県内大雪直撃 高岡84センチ、氷見65センチ 交通まひ(北日本新聞) https://t.co/WtAOl0P9X3 北陸新幹線雪ヤバイ…
— ヨーク (@york21c) 2018年1月12日
ところで雑誌の、元巨人軍の長嶋茂雄のインタビューに、「プレーヤーは、技術のレベルが上がるほど孤独になります。成功を収めるには、孤独に勝てないとダメです。ところが監督の孤独というものは、選手時代とは比べものになりません。選手は自分がテンションを上げてプレーすればいいだけですが、監督はそうはいかない」という一節があった。
この孤独に勝つというのは、孤独だからこそ、球場に、あるいは舞台に出たときに生きる、ということだそうだ。勝負師は孤独から逃げてはいけないとも言われていたらしい。
高い技術を持った選手には、より高い活躍が求められるようになると思うけど、そんな中で、ここ一番の時に期待される結果を残したと言われる長嶋茂雄選手の言葉だけに、すごく胸にくる言葉だと思う。
長嶋茂雄選手の現役時代は知らないけど、オープンで楽天的な感じに見える長島選手でも、活躍の裏には人の知らないところでの陰の努力、そして孤独との戦いがあったようだ。
自分のような並みの人間は、あの人だったらやってくれるだろうと期待するだけだろうけどね。
活躍の陰で、人しれず孤独と戦い続ける姿があることを、知る人はほとんどいないんだろうなと思った。
これは余談になるけど、現役時代、シーズンオフに自分を鍛えるために山籠りをした場所が、伊豆の大仁だったそうだ。
今年のワールドメイトのお話の中にも、それに少し通じるような内容があったので、感じたことを少し書いてみたい。
文芸家や創作的な物書きをする人は、漫画家もそうだけど、常に期待されるような作品を作らなくては、というプレッシャーとの戦いがあるようだ。
小説を書く人は、その内容で評価されるから、高い評価を受けるものを書けば書くほど、次の作品への期待は高まるよね。
でも、そういう高い評価を得るものを創作するには産みの苦しみがあり、それは同じ作家であれば理解できるけど、普通の人にはほとんど理解されてないよね。
もしも、それに応えるような作品がかけなくなってくると、作家にとってそれほど苦しいことはないようだ。
高名な作家ともなると、プライドが許さないだろうし、けっこう自殺をする人がいたりするのも、そんなところに要因があるのだろう。
そして、画家や作曲家のような音楽家にも、同じようなことが言えるそうだ。
そのような創作的な芸術に取り組む人の宿命として、その技術が高くなればなるほど、周りから求められるものも、自分自身で求めるレベルも高くなるだろうからね。
それを乗り越えて結果を出し続ける人は、どれほどの産みの苦しみを乗り越え、孤独な自分自身との戦いに打ち勝ち、作品を出し続けているのかだよね。
これは、同じ画家、同じ作曲家、音楽家だったら、その繊細微妙な気持ちや苦しみや葛藤を理解できるのかもしれないけど、そうじゃない人にはなかなか理解できないことだと思う。
なんとなく、そんなものかなという程度にわかるだけで、本当の大変さまではとうてい理解できないよね。
そして歴史に残る偉大な作曲家や、偉大な作品を残した画家の私生活をみると、かなり変わった人もいる。常識的、道徳的に見て、許されるのかなと思えるような行動も、多々あったようだ。
でも、多少奇怪な行動や、非常識と思えるような行動があったとしても、芸術家にとっては作品のすばらさしさこそが全てなので、それらの言動によって作品価値が下がることはないよね。
いわば、産みの苦しみの反動、孤独との戦いの反動でそういうことに走るのかもしれないし、クリエイティブな仕事をする人にとっては、繊細微妙な良い状態を作り出すために、普通の常識では理解しずらい行動も、多々あるのかもしれない。
もちろん、それが犯罪になるようなことであれば、許されないのは当然だし、そこまでしてクリエイティブなことをする価値はないと思うけどね。
まぁ、全くそういう活動をしてないのに、とんでもない行動をする人も、世の中にはたくさんいるけど。
はじめに書いた長嶋茂雄選手のような、どこまでも技術を磨いて素晴らしいプレーをしたり、記録を出すスポーツの世界においても孤独との戦いがある。
芸術家のような、作品を生み出す苦しみというものとは違うだろうけどね。肉体の酷使に耐え続ける、限界に挑むという別な苦しみは増えると思うけど。
とにかく、そういうものなんだなということを、何となくだけど理解できたような気がする。
深見東州先生の場合は、絵を描くことや作曲や歌唱レベルの向上もだけど、文章を書くことが、最も大変のようだ。
そもそも、能楽師であり、画家であり、書家であり、歌手であり、作曲家であり、詩人であり、小説家であり、劇団の脚本、演出家であり、たくさんのメルマガを書く文章家だから、そんな多くのジャンルを手がける人がいないだろうけどね。
一つの分野でも、クリエイティブなものを生み出すために人知れぬ苦しみや葛藤があるのに、そういう分野がいつくも複合してくると、もう誰にも理解するのは不可能に思える。
さらに、ワールドメイトの活動はじめ、世界的な宗際化運動に取り組む宗教家だから。クリエイティブなものを創造するからと言って、その反動で奔放な生活をすることもできないよね。
その過酷さや、繊細な世界を想像できる人は、一番理解していそうなワールドメイト会員にだっていないだろうし。
真に深見東州先生のされることを理解するには、深見東州先生と同じようなことをやれるようなレベルにならない限り無理だよね。
ただそれが不可能だってことだけは、自信を持って言えるけど。
ということで、普通に理解できないようなことを次々とされる深見東州先生だけど、それでもついて行くと、知らないうちに運が変わり人生が豊かになることも体験してきた。
おそらく、ワールドメイトを続けてきた会員も、そう感じている人は多いだろうから。
今年も、去年以上に面白い一年になりそう。