ワールドメイトに入会して、考え方が変わったことの一つは雑用することの大切さかな。
雑用というのは掃除とか片付けとか、そういうものを当然含むけどね。
何かをやる時の準備や段取り、そして後始末ということまで含まれる。
準備、段取りはわかるとしても後始末というのは、何かを行うときにはトラブルが発生したり、クレームが発生することだってつきものだよね。
そういう何か問題が起きたとき、それを解決するために動き、最後の尻拭いまでやるということかな。
そういうことで、後始末という表現になるようだ。
ここで大事なのは、現場で動いていることかな。そうすることで現場の雰囲気がわかるし、生きたものを感じることができる。
そこから発言する言葉の一つ一つにも重みが出てくるし、周りの信頼も得られることになるよね。
その現場のことを知らずに、現場にいなくて、ただ、上から指示するだけだと、なかなか現場にいる人たちの信頼を得ることは難しいよね。
上に立つ立場の人は、気をつけないと気が付かないうちにそうなってしまいがちだよね。
そうすると表面的には周りも納得して従っているように見えても、内面では馬鹿にされていたりすることはよくあるからね。
自分もそんな上司がいたときには、一応従うんだけども、現場の状況わかってないんじゃないって思うことがよくあったから。
やはり上に立つ人は面倒くさがらずに、率先垂範して雑用や雑務をするような人でないと、なかなか正しい判断ができないし、みんなの信頼も得られないというのは、体験上からも納得できる。
まぁ、かなり大規模な組織とかになってくると、率先垂範したくても、できなくなるのかもしれないけどね。
で、こういうことを指して、「雑用は判断のゆりかごなり」というお話を、深見東州先生はよくされる。
ワールドメイトで雑用の大切さの意味を、そこでさらに深く知ることになった。
ワールドメイトでは生活修行こそが御神業の全てと言われている。
生活修行というのは、今書いてきたような雑用・雑務のことだと思ってもらうといいかも。
生活修行のなかから、生きた知恵が出てくると深見東州先生は言われているけど、それは雑用や雑務をおこなっていると、正しい判断ができるということだよね。
逆にいうと、雑用や雑務をあまりやらない人は、だんだん判断が狂ってくるようだ。
役割分担やチームワークでやることはスゴく大切なことだけど、その前に、組織の上に立つ人は雑用を全てやらなければ、それぞれに任せた時に、足りないところがわからないし、どうすればいいのかの判断が正しくできないよね。
まぁ、深見東州先生を見ていると、あらゆる雑用を率先してされてきたんだろうなと思う。
ワールドメイトの末端の会員の気持ちを、よくわかっているなと思うことが多いし、また、さまざまなアドバイスや指示を聞いていても、想像する以上の知恵で問題を解決されているから。
今でも、現場の声をしっかりと聞かれているから、現場の雰囲気を正しく把握されているんだろうと思う。
何かの準備や段取りにしても、現場で問題が発生すれば、直接話を聞いたりされる。
どんなに忙しくても人任せにはせず、しっかりと関わって誰も思いつかないような判断をされているなと感心することが多い。
もちろんからだは一つしかないからね。
全ての人の声を聞くことはできないだろうし。
たくさんのことを同時並行でされている多忙の身なので、全てに完璧な対応ができるわけではないだろうけどね。
それでも時間の労を惜しまず、めんどうでも率先して取り組み、最後の後始末までされているなと感じる。
そんな深見東州先生の一言一言には、現場の人たちへの深い愛情がこもっていることも、肌で実感するんだよね。
ワールドメイトの教えでは、「神様の道は生活修行にある」と言われている。
そんな生活修行から出てくる生活の知恵こそが、神様の知恵だと言われていた。
いくら学校の勉強で優秀だったとしても、こればかりは実践しないと身につかないものだよね。
生活修行ができていないと、神様の叡智が受け取れないし、現場での実践や対応における、さまざまな応用力とかも出てこないと言われていたから。
実際スゴく頭が良くて学歴もあるのに、仕事の現場では、いまいちポイントを外して仕事ができない人って、けっこういるからね。
だけど勉強ができて頭が優秀な人が、生活修行もしっかりとできていれば、総合的に優れたリーダーになっていくそうだ。
人物金を動かせる優れた実力者になれるわけだよね。
ワールドメイトでは、準備や段取り、運営や後始末で、ああでもない、こうでもないと、いろいろとやっている時が、一番神様も見ていて、人としても進歩向上し、進化していると言われていた。
それこそが御神業の実態であって、それは今、生きている時にしかできないことだからね。
人は魂の進歩向上のために、生まれ変わり死に変わりするというのは、ワールドメイトで聞いたことだけど、そのことと矛盾しないよね。
だから祈るだけではなく、現実にそういう努力をしないと、本当の神様は動かれないわけだよね。いつも言われていることなんだけど。
そのような生活修行を現実世界でおこなっているときに神様の知恵がやってくるそうだから。
神様の世界は感性と感覚の世界でありながら、実は現実界でもあり、現実の行いを大事にされているんだよね。
それは寒い時期に咲く梅の花のように、現実世界の厳しい極まった時に来られるわけだよね。
心の持ち方や悟った境地も大事だと思うけど、それは霊界のことになるから。
神様の道では信仰心が大事になるけど、信仰心というのは、現実においてどこまでも貫き通した足跡が輝かしいということなんだよね。