前回、熱田神宮のことを書いたけど、それを書くのに深見東州先生著作の「日本霊界風土記 熱田」を久しぶりに読んでみた。
記事を書きながら、改めて熱田の神様の功徳の大事さを感じてしまった。というか、忘れかけていたものが蘇えってきた気がした。
人間は苦しみが大きければ大きいほど、困難が大きければ大きいほど、神様からいただく喜びも大きく奇跡も大きいわけですが、そういう人生は嫌だ、面倒くさいと思ったら、もう、永遠に神の世界とはお付き合いできません。御魂がそのレベルだったということでしょう。(深見東州著「日本霊界風土記 熱田」)
これは色々な角度から、多くの意味がある言葉だと思うけどね。深見東州先生だからこそ言える言葉だなとつくづく思う。
深見先生のすべての活動に関して言えば、そもそも深見先生は好きでされているわけではなく、趣味でされてるわけでもないから。
一般の普通の人たちからすると、深見先生がなんであんなにたくさんのことをされるのか、理解不能だと思うけどね。名誉欲でやっているんだろうとか、その大変さや困難さも知らず、見当外れなことを思う人もいるくらいだから。
今年のワールドメイトの神事でもお話されたけど、楽しいからやるという人は、楽しくなくなったら止めてしまうそうだ。
面白いからやるという人は、面白くなくなったら止めてしまう。
有意義だからやるという人は、有意義に感じなくなったらやめてしまうそうだ。
確かにそうだなと思うし。だから深見先生の場合は、そういう気持ちでされているのではなく、神の思し召しというか、神の義のためにされているわけだよね。
だからものすごく困難なことであっても、次々とそれにチャレンジされてきたのだろう。
それを運命と思って、そのことを好きになる努力をされ、有意義に感じる努力をされながら、次々とチャレンジし、努力してものにされてきた。
面白くないものに遭遇したときにでも、深見先生の場合は面白くする努力をし、楽しくなるような努力工夫をされているから、ずっと続けていけるんだろうね。
それでも一度始めたものを、すべて同じようにやり続けていたら、幾つものことを同時にやるのは不可能になるそうだ。
だから、雨が降ったり止んだりするような形でされるそうだ。つまり、絶対に止めないということで、何年か休んだとしても、また始めるとか。
そんな感じでやっていると、同時にたくさんのことができるようになったそうだ。
そういう風に、絶対に止めずに続けていく工夫をする天才なんだろうね。
それが深見東州先生ように万能性を発揮するための、大きなコツなのだろう。簡単にできることではないけど。
でも、一般の人たちからすると、なんでそこまでして続けなくてはいけないのか、そこまでやる必要があるのかという疑問も湧くよね。
さっきも言ったように、神様の思し召しだからといえばそれまでだけど、深見先生の信仰に対する考え方、体験からくる確固たる信仰心の真髄をまず理解しないと、それも理解できないと思う。
信仰心といっても、神様を拝み、崇敬しているというようなレベルのものではないから。
深見先生にとっては、死ぬまで貫き通すことが信仰心になるそうだ。
たとえばサッカー選手なら、どこまでもサッカーとともに生きた人生を貫くと、その人にとってはサッカーが神様になるそうだ。
どこまでも音楽の道を貫いてきた人は音楽が神になるそうだ。
そのように貫き通したものがあると、その人にとってはそれが神様になり、そこまで貫き通して初めて信仰心と言えるそうだ。
信仰の対象はこの場合はサッカーや音楽になるけど、神様そのものだけが信仰の対象ではないわけだよね。神様には真善美と、様々な局面があるんだから。
このことは、聞けばなるほどと思うけど、そこにはものすごい人生の法則があった。
一言で言うと貫き通す力は、荒御魂の力になるそうだ。
その荒御魂は一霊四魂の中で、もっとも大切なものだと平田篤胤が言っていたらしい。
また、荒御魂とは陽に出ると勇猛心、陰に出ると忍耐になるそうだけど、エドガーケーシーはリーディングで人間にとって最も大事なものは、それは忍耐(辛抱)だと言っていたそうだ。
忍耐(辛抱)がないと、愛情があっても、知恵があっても、優しさがあっても続かないし、全うできないからだろうね。
深見先生が言われるには、人間は魂を進歩向上させるために肉体を持って生まれてきたと言われている。
ワールドメイト会員になると、人生の本義とは、御魂を磨くことだと教えてもらえる。
人間はなんのために生きているのかという疑問は、誰でも持ったことがあると思うけど、その本当の意味をワールドメイトで、はっきりと知るようになる。
肉体を持って生まれてくるということは、時間や空間の制約があるということだから。
そしてある条件のもとに、それに見合う環境や時代に生まれてくるわけだけど、そういう様々な制約の中で生きていくわけだから、当然様々な苦労があるし、思うようにならないこともたくさんあるのが普通だよね。
その不自由さの中で、忍耐しながら辛抱しながら生きているのが現実だよね。
だからこそお釈迦様が出てきて苦集滅道を説かれたようだ。
一切は苦であり苦には原因があることを説き、最終的に苦に向かい、悟りを開けば涅槃寂静して幸せな境地になれることを説かれた。
そのように、いわば苦とのたてかえによって、初めて人間の魂も進歩向上するということだよね。
その苦をのり超えて魂が進歩向上するためには、忍耐と辛抱がなければできないから、エドガーケーシーや平田篤胤も、そのように言ったのだろう。
深見東州先生は荒御魂を発動させることが大事だと言われていた。
様々な環境の中で、いろいろなものに制約され、縛りつけられた中で忍耐し、辛抱し、それをバネにして魂を進歩向上させることが大事なことなんだろう。
それともう一つ、荒御魂には勇気、勇猛心という側面があり、そのような苦しみや困難に挑戦していく勇気やチャレンジこそが荒御魂の発動になるそうだ。
これらが人間にとって一番の美徳になるそうだ。
人間にとって最も価値があるもので、神様が最も大事だと言われている。
これがあって、幸御魂も、和御魂も、奇御魂も生きるわけだから。
だから、貫き通す精神が信仰心という意味は、貫き通していこうと挑んでいくことが荒御魂の発動だから、そのときに荒御魂が磨かれているわけだよね。
忍耐や勇気がないと何事も貫けないから、いくら愛情があっても、知恵があっても、本当の信仰心にはならないわけだよね。
このような価値観で深見東州先生は精進されてきたので、あれだけ多くのことができる人になられたんだろう。
かなり簡単に書いたけど、そう簡単にはできないことだよね。ワールドメイト会員も、深見先生を見て少しは見習わないといけないとは思ってはいるけど、このような信仰心を持つ人は、なかなか少ないと思う。
自分ももちろん全くダメだし。
それでもそういうことが大事だと分かっていれば、できないまでも、そのプロセスにいることはできるし、だんだん本物の信仰心に近づいていくことができるかもしれない。
ということで、長くなったけど、そのことを改めて感じたので書いてみた。
言うまでもないけど、人生の様々な苦しみや悩みや葛藤に、一方的に苦しんで忍従しているだけでは、荒御魂の発動にはならないからね。
気持ちを奮い起こして、荒御魂を発動させることができれば、そうするとなぜか物事が解決したり、大きな証もそういう時にこそ出ると思うけどね。