冬も終わり、少しづつ春らしい気候になりつつあるけど、ワールドメイトでは冬の時期に特別な意味がある。
そのあとの一年間のエネルギーとなるような、内面の充実が蓄えられる時期だと言ってもいいと思う。
樹木でも冬の間は葉を落としてじっと耐えてるように見えるけど、その年の繁茂のための準備をしていて、春になると花が咲き、夏に葉が生い茂っていくように、人間でも冬はそういう時期に当たるのかもしれない。
実際は1年中生い茂っている植物もあるし、人間も年中忙しいけどね。でも見かけはそうであったとしても、内面的には冬の時期に、その後の活動のエネルギーとなるものを蔵していかないといけないようだ。
そういう意味で、今年のワールドメイトのお正月神業でも、深見東州先生のお話の中に、今年の活動の方向性やヒントになるものがたくさんあった。
また節分や氷見の神事でもそうだった。氷見のワールドメイトの神事では、深見先生の昔の素晴らしいお話をされたビデオもたくさん見ることができた。
それで参加したワールドメイト会員は、人それぞれに今年の糧となるヒントや何かを得たのではないかと思う。自分もこの冬の間に、いろいろと感じたりするものが多かった。
それは頭の中で考えた結果、感じたというものではなく、ふっと内側から湧き上がってきて、閃いたりそう感じたりするものが多い。
たとえば深見東州先生は、1分という時間でも大事にされていることを感じる。
1分1秒でも無駄にされず、寸暇を惜しんで精進されてきたことは、以前からよく聞いてきたし、実際にそうだと思う。
しかし今回はそれだけではなく、忙しいからわずかな時間でも無駄にされないよう努めてあると思うけど、そのときに決して焦ってされてないことを感じた。
焦った念を出さないというのは、ワールドメイトの神事中に時々聞く言葉だけど、自分の場合、時間を大事に使わないともったいないと思うと、それに囚われて焦っている気をいつも出している。
だから時間を大事にしようと思ってはいるけど、結果的に時間を効果的に使えているとは言えないようだ。
でも深見先生の場合は、あれだけたくさんのことができるのだから、わずかな時間でも大事に使って精進努力されてきたのは明白なのに、見る限りにおいては、まるで悠久の時間が流れているがごとく悠然とされていて、焦っている気など全く出されていない。
実際は超ハードなスケジュールで、世界一忙しい人ではないかと思うくらいだけど、全くそんなそぶりを感じさせない。
だからこそ、わずかな時間でも人の何倍もの効率で物事を進めていくことができるのかもしれないし、物事を習得することができるのではないかと思った。
自分は時間を大事にしているつもりでも、全く効果的に使えていなかった。
それは時間を有効に使わないといけないと、そのことに囚われて焦った気を出し、結果的にたいしたことができないという矛盾に陥ってしまっていたようだ。
だから今年は深見東州先生のようになるのは無理だとしても、少しでも近づけるよう焦った念を出さず、いつも最高の状態で時間を有効に最大に使えているイメージで一年を過ごそうと思う。
焦った念を出されない深見東州先生のお姿は、いつ見ても自然体で余裕を感じるし、清々しい。
だからこそ天来のヒラメキもやってきて、何をされるにしても最大の効果を発揮できる状態にあるのではないかと思う。
それからもう一つ別なお話になるけども、今年はもっと何事においても粘り強くやろうと思う。
個人的にはあまり好感を持ってはいないけど、孫正義について、その交渉力のことが雑誌に書かれていた。
アッブル社とのiPhoneの日本における独占販売の契約、また、中国のアリババとの取引で大きな出資を飲ませたり、数々の交渉力で成功を勝ち取ってきたことが書かれていた。
それは、やはりしつこさと度胸に負うところが大きかったようだ。
深見東州先生も、まだワールドメイトができる前には、武勇伝のごときものすごい営業や、奇想天外な発想で成功された体験を持たれていて、そのお話をいくつかされてきた。
今でもビジネスの世界に身を置き、世の中の常識や感覚から、決して外れることがないように己を正し磨いてあるようだけど、とにかく交渉における根性と度胸がものすごいと思う。
その実例も強運力開発セミナー(半田晴久著)などに、具体的なやり取りが書かれていて、読んでるだけでその時の肝の据わった度胸の様子が伝わってくる。
そういう度胸や粘り強いものがないと、やはり何事もなし遂げられないなと思って、不甲斐ない人間にならないためにも、今年はもっと度胸と根性で粘り強く行こうと思っている。
ちなみに今、武勇伝のようなお話と書いたけども、深見東州先生は、苦労されたお話や、ものすごい度胸で成功した体験などを、みんなの参考になればとお話しされるけども、自慢げに話されているような雰囲気は一度も感じたことがない。
かといって謙遜しすぎて、嫌らしく感じることもない。自然体で話される。
もっと言えば、深見東州先生は今日に至るまで、あられもない理不尽なことを言われたり、憤慨するような目に遭われてきたにも関わらず、そのこともさらっと話される程度で、全く恨みも嫌味も感じさせない、苦労したという臭みも全く感じさせずにお話しされる。
これは、どうしてそういう風に自然にお話ができるのだろうと考えると、すべてを神様の試練として受け入れてあるからではないかと思う。
逆にそれがあったから今があると、感謝すらされている。
これは誰にでもできることではないよね。少なくとも本物の信仰心の確立なしには、とてもそうは思えない境地だと思う。
世の中でもこういう境地まで行けた人は、偉人と言われる人でも、そんなにいないように思うけどね。