ワールドメイトは神道になるけど、さまざまな現世利益を叶える祈祷もあるせいか、たまに、いわゆるご利益信仰の教団だと勘違いする人もいる。
真面目に信仰する人に多いけど、神様に対して願いを求めるなんて、それは本当の信仰ではないと思う人がいるんだよね。
まぁ、それは一面では正しいと思うけどね。神様は人間の願いを叶えるために存在しているわけではないから。
もしも自分の願いを叶えたいと思って信仰を始めるのであれば、入口としては許容されるとしても、ずっとそのままでは、やがて行き詰まってしまうか、おかしな道に行ってしまいかねないからね。
ただ神様からくる証やお陰は、神様が本当にいるということを実感するのには、とても良い体験になることも事実。
いくらお陰信仰が間違っているとは言っても、現世利益があった方が嬉しいしありがたいからね。
おかげを目的に信仰するのがダメなのであって、神様の恵みを頂けることは素晴らしいことだから。
神社ではさまざまなご祈祷をしているけど、神道では現世利益を与えてくれる、「生業(なりわい)や家を栄えさせ、コミュニティーを繁栄させる」という特質がある。
そこだけを強調しすぎると、神道はお陰信仰なのかと勘違いされそうだけど、「聖と俗を区別して共存する」という特質も持っている。
純粋な神様への信仰と、一方で日々の生活も豊かに、という二つのことは決して矛盾するものではなく、区別して両立できるのが神道の良いところだから。
清貧を貫いて神様に奉仕する人の話は、キリスト教や仏教ではよく聞くけどね。信仰者の鏡のように見えると思うけど。
神道の神様も、そのような純粋な信仰の心を受け取るけど、そのために現実は貧しくてもいいとか、そんな風には思われないし、現実も栄えて幸せになってほしいと思われている。
だから、純粋に神様に仕える心がありながら、一方で俗にまみれる社会でもしっかりと頑張って生きていくことは、何も矛盾しないし、区別して両方できるわけだよね。
日本には熱心な信仰者でありながら、立派な経営者である人もかなりいると思うし。
また、神道が根付く日本では、神様が住むと言われる聖なる山や場所は、大事に保護してきたけど、それ以外の山や自然は適度に開発して人間のために活用してきた。
そのように区別してきたからこそ、今の日本の繁栄もあるわけだから。
全ての自然に神様が宿っているというアニミズムとはそこが違うよね。
自然は大事にするけど、一切に手をつけないわけではなく、神聖なものと区別して利用できるところは利用しないと、現実の繁栄は難しいからね。
キリスト教圏や今の中国のような国では、自然の中に神様が住んでいるとは言わないから、神山と普通の山の区別とかもないし、人間の都合だけで開発してきたと思うけど。
それから神道には、もう一つ「現実を生き貫く精神や魂の、輝きに価値を見出す」という特質があると、ワールドメイトでは言われている。
これはいろんな意味があるけど、ワールドメイトでは、人間が生まれてくるのは、この世での修行のためと言われている。
それは一面では徳を積むためでもあり、それによって死んで霊界に帰るときは、霊的ランクがより上の霊界にいくことができる。
またしばらくすると、肉体を持ってこの世に生まれ変わって、またこの世での修行が始まるという再生転生を繰り返しているんだけどね。
そのような大前提があって、「現実を生き貫く精神や魂の、輝きに価値を見出す」という、この世での修行の価値観と言えるものがあるのだろう。
ちなみに、この世の修行って何って言われると、ワールドメイトでは御魂を向上させる」という言い方をするけどね。
それは大きく内修外慈という二つの方向性があり、不即不離の関係になっている。
ワールドメイト会員には詳しく、いろんな角度から説明されているけどね。
己を磨きながら、徳を積んで功を立てるということでもあるし。
真・善・美を探求し、実行して世に表すということでもある。
自分では御魂を向上させようと頑張ったと思っても、必ずしも、そうはなってなかったりすることも多いけどね。
究極の御魂磨きは、神様の御用にお仕えするという志と行動になるのかもしれない。