信教の自由とか、戦後の日本では憲法で保障されていたせいか、当たり前のこととして、ふだんはあまり意識することはなかったけどね。
でも最近の社会の風潮や議論を見るにつけ、信教の自由の尊さをとても実感する。
もしも信教の自由がなくなれば、その時の権力者に都合の良い宗教だけは、利用価値があるので生き残るかもしれないけど、それ以外の宗教は、本物の宗教性を持つ宗教であっても、どうなるかわからない気がしたから。
最近信教の自由の意味や、宗教のことをよくわかってない人の中には、宗教的な祈祷や霊的な除霊なども、霊感商法と同じと思っている人がいるんだなということもわかった。
警視庁のホームページには、霊感商法の説明として「単なるつぼや印鑑・置き物などに、あたかも超自然的な霊力があるように、言葉たくみに思わせて、不当に高い値段で売り込む商法です。」と書かれていた。
物品販売に限っていて、ご祈祷や除霊などの宗教的なものにまでは踏み込んでいないけどね。
たとえば神社仏閣で販売するお札や置物(像)などは、祈り込んでいて神仏の分魂が宿っていると言うことで、それなりの金額になるものもあるけど、それは単なる壺や置物とは違うということになるのかな。
単なる物品にしても社会通念上、法外に高く販売すると違法になるけど、そうでもないものについては、特に言及されてないようにも見える。おそらく裁判所の判決がそのような基準で出ているからかな。
法的には信教の自由を尊重しつつ、法外な金額を要求するものに関しては、法の網をかけるという感じで、バランスを取っているのかも。
加持祈祷や寄付行為などの物品販売ではないものに関しては、どうなんだろう?
社会通念上、度を超えて高額とみなされない範囲であれば、もちろん問題になることはないと思うけどね。
今回、統一教会のことがいろいろ言われているのは、あまりの高額な寄付をしていることが、大きな問題になっているのだろう。
ワールドメイトでは、そもそも高額な寄付を要求されたことが無いから、全く問題はないんだけどね。
とはいえ、今回の統一教会問題の議論の中で、宗教は信教の自由に守られすぎて、行きすぎた行為をしているのではないかとか、そんな見解も出ているようだ。
そこは少々気になるところだけどね。
なぜ気になるかというと、宗教をよく理解してない人の中には、宗教の中にあるスピリチュアルなものを、そもそもインチキとか、そんなもの存在しないと思っている人もかなりいるようだからね。
思うのはもちろん自由だけど、今の科学では証明することができないからと言って、祈祷による霊的な影響や神仏のお陰とか、因縁や功徳の法則、先祖霊とか祟り霊の存在など、まったく否定している人もいるよね。
祈祷や除霊などの類はインチキなんだから、それでお金を取るのは詐欺か霊感商法と同じだと誤解してしまうんだよね。
その結果、信教の自由が保証されているにもかかわらず、信教の自由を盾に行きすぎた行為をしているとか、挙句に信教の自由そのものが間違いであるかのように言いかねないなと思ったから。
まぁ、今回の統一教会のことがどのように決着するのかはわからないけど、信教の自由にまで議論がおよび、それを侵害するようなことにならなければいいけどね。
最初に書いたように、信教の自由が侵害されると、時の権力が利用できる宗教だけが残るか、あるいは都合の良いように中身が変質させられたりして、本物の宗教が蔑ろにされる可能性があるなと思ったから。戦前の大本は国の弾圧を何度も受けていたように。
まぁ、そんな戦前のような世界に逆戻りするようなことになるとまでは思っていないけど。
それにしても、世の中には信教の自由を都合よく利用して金儲けする悪い人たちも確かにいるけどね。
また、悪意はなくとも、その国の文化や社会性から外れた教義や戒律を持つものだと、社会との軋轢を生むこともあるし。フランスにおけるイスラームとの摩擦とか。
あるいは、今、イランで大騒動になっているヒジャブのこととかも。
そこは宗教側も、時代に合わせて、もっと柔軟で民主的に変わらないといけない部分もあると思っているけどね。
そのように今でも宗教は、さまざまな問題を孕んでしまう側面は確かにあるんだけど。
それでも世界の多くの人が宗教を求め、神を信仰するのは、なぜなのかだよね。
文化の一部になっているとか、あるいは人間は超自然的な何ものかにすがりたい欲求があるとか、いろんな理屈はあるとは思うけど。
もし、神も仏も存在しないのであれば、宗教、あるいは宗教的なものが数千年にわたり、世界中で存続してきたはずがないと思うけどね。
宗教のせいで、これまで多くの争いや問題が起きてきたのに、それでも宗教は否定されず、全く廃れてこなかったところを見ても、答えは明確だなと思う。
同様に祈祷にしても、除霊的なスピリチュアルなものにしても、偽物が横行したり、いろいろ問題はあっても、長く続いてきたのは、やはりそこに真実があり、本物が存在するからだと思っている。
そんな真実や本物を廃れさせないためにも、信教の自由は大切なことなんだなと、最近強く意識するようになってきた。