(昨日のブログからの続き・・)
ここで、まず去年報道された、福島第一原発の責任者、吉田所長へのインタビューを紹介すると、
東京電力福島第1原発の吉田昌郎所長と記者団の主なやりとりは次の通り。
−−報道陣の前で初めて話すことになるが、国民にまず何を伝えたいか。
◆私が責任者の発電所で事故を起こしてご迷惑、ご不便をおかけしたことを心よりおわびしたい。日本全国、世界から支援の手紙や寄せ書きをいただき、特に被災された福島県からの支援の言葉は大変励みになっている。
−−これまで一番厳しかった状況は。
◆やはり3月11日からの1週間。次がどうなるか私にも想像できない中、できる限りのことをやった。感覚的には極端に言うと「もう死ぬだろう」と思ったことが数度あった。
−−1号機が水素爆発した時の状況とその時、感じたことは。
◆まず「ボン」という音を聞き、「何なんだ」と。現場から帰った人間から「1号機が爆発しているみたいだ」という情報が入ってきた。3号機は音と、(テレビの)画像で見た。4号機は本部にいて音は聞いたが、2号なのか4号なのか分からず、その時は(どちらか)判断できなかった。
−−「死ぬかと思った」時とは。
◆1号機の爆発があった時、どういう状況かが本部では分からなかった。現場からけがをした人が帰ってくる中、格納容器が爆発していれば、大量の放射能が出てコントロール不能になる(と思った)。3号機も爆発し、2号機の原子炉にもなかなか注水できず、先が見えない。最悪の場合、メルトダウンもどんどん進んでコントロール不能になるという状態で「これで終わりかな」と感じた。
−−危機を脱したのはいつごろか。
◆(爆発の)次は4月初めに高濃度の汚染水が漏れ、水処理(設備)を一生懸命造った。6月いっぱいぐらいまではかなり大変な思いをした。全体のシステムとして本当に安定したのは7、8月だと思う。
−−原子炉の現在の状態は。
◆私がデータを見て確認している限り、原子炉は安定していることは間違いない。ただ「超安全」ということではない。線量は非常に高く、日々の作業という意味ではまだまだ危険もある。周辺住民に安心いただける程度に安定しているが、(事故収束の)作業はまだ厳しい状況だ。
−−1、3号機は燃料が溶融しているが、安定させられるのか。
◆原子炉の各部の温度変化などを見る限り、燃料が外に出ていたとしても、圧力容器だけでなく格納容器も含めて、原子炉全体が冷却されており、安定だと判断している。
これを見る限り、とてつもない危険な状況であったことが伝わってくる。特に最初の一週間は、「もう死ぬだろう」と何度も思うほど、どうなるのか想像つかない状態であり、きわめて重大な運命の1週間であったことが感じられる。
3月16日には、アメリカ政府すら、次の24時間から48時間がとても重要になると発表していた。ちなみにこのときホワイトハウスは、「何十年もの間、瀕死の状態となる」可能性のある日本に対して準備がある、と報道していた。
そしてこのときは、3号機の使用済み燃料プールの水が無くなりかけ、非常に危険な状態になっていた。
3月16日からは放水がはじまり、空から自衛隊が決死の覚悟で水を投下している光景をテレビで見られた人も多いと思う。
さらに18日からは東京消防庁、そのあと大阪からも消防車がかけつけ、この人たちが命がけの放水作業で大活躍をしてくれた。もちろん、原発内に残って作業を続けてくれた人たちもだけど。
そのおかげで、この最悪の事態が避けられた。本当にこの人たちこそ日本存続の危機を救ってくれた人たちだと思った。
もし放射線量が酷くて近づけなくなり、水が無い状態が数日続けば、相当な範囲まで汚染された、あるいは被爆した可能性もあったといわれている。
それからこの時おきた3月14日の3号機の水素爆発は、本当は核爆発だったという説もあるようだ。
このあたりの、プルサーマル燃料を使用いていた3号機の危険性や核爆発説など、ネットで探せばいくらでも出てくるものの、どれほど危険だったかの真相については、いまだはっきり解明されているとはいえないようだ。
実はこの3月14日に、ワールドメイトで深見東州先生が、「3日以内になんとか安全な状態になるように祈らなければ・・」と、言われていたそうだけど、今になって考えると、このときの重大な危険をどこかで察知されていたのかもしれない。
そして最悪の1週間がすぎ、恐ろしい悪夢のような破滅からはぎりぎり回避されたものの、吉田所長のインタビューからは、そのあとも去年の6月一杯までは、相当に危険な状況が続いていたことが理解できる。
安定してきたのは去年の7月からだということだから。もちろんこれは解決したという意味ではなく、最悪の事態に逆戻りする危険は無くなったと言う程度の意味だと理解しているけど。
たしかにそのころから加熱していた報道も急に沈静化しはじめ、全体的に平静を取り戻していったことからも、それは間違いないといえそうだ。
ここで去年の4月4日のワールドメイトの神事で御祈願した時、深見東州先生が、「1年かかるところあと3ヶ月で収束するように守護される」と言われていたことを思い出す。
4月4日から3ヶ月と言えば、ちょうど6月いっぱいか、7月の初めくらいだから、これもまた吉田所長の状況説明とぴったり重なっているよね。
具体的には、原子炉冷却に関しては、去年の6月27日から循環注水冷却が開始されている。
循環注水冷却27日にも開始(6月27日 6:00更新)
東京電力福島第一原子力発電所の事故で、浄化した汚染水を原子炉を冷やすために使う「循環注水冷却」が、27日にも始まる見通しとなりました。「循環注水冷却」は、「原子炉の安定的な冷却」という来月中旬が目標の工程表のステップ1を達成するために重要な要素で、東京電力では準備が整えば、27日午後にも原子炉への注水を開始するとしています。これがうまくいけば、汚染水を原子炉の冷却に使う「循環注水冷却」が実現することになり、現在、注水している水が必要なくなるとともに、汚染水の発生を減らすことにもつながると期待されています。
さらに「循環注水冷却」は、「原子炉の安定的な冷却」という来月中旬が目標の工程表のステップ1を達成するために重要な要素で、その成否は浄化設備が安定的に動くかどうかにかかっており、東京電力では、不測の事態に備えるなど設備の運転に万全を尽くすとしています。
3号機1週間程度で安定冷却(6月30日 6:05更新)
東京電力福島第一原子力発電所では、原子炉の冷却と並んで課題となっている使用済み燃料プールの安定的な冷却が、2号機に続いて3号機でも、順調にいけば1週間程度でほぼ実現できる見通しとなりました。
危機回避への一番の重要な問題は、なにより「安定的な冷却」にあり、事故の収束に向けた工程表の最初の節目となる「ステップ1」もここがメインであり、7月16日にはこの目標が達成されたことが報告されていた。
“ステップ1おおむね達成”(7月16日 21:30更新)
菅総理大臣は、福島県郡山市で、東京電力福島第一原子力発電所の周辺にある12の市町村の長らと会談し、事故の収束に向けた工程表の最初の節目となる「ステップ1」の目標をおおむね達成できたことを報告しました。(中略)そのうえで菅総理大臣は、事故の収束に向けた工程表の最初の節目となる「ステップ1」について、原子炉の「安定的な冷却」に到達したことや、水素爆発を防ぐため、原子炉に窒素ガスを注入する作業を行えたことなどから、おおむね目標を達成できたことを報告しました。
(以上、NHK/東京電力福島第一原発事故関連ニュースより)
もちろん後処理のことなど、このあとも懸案は山積みであり、本当の意味での終わりにはほど遠いけどね。おそらくまだ何十年も先になることだろうから。
しかしこの7月最初の時点で、収拾への大きな節目を超えたのは間違いないよね。これより先重大な危機がおきる可能性は、この時点で回避されるメドがついたと言っても良さそうだから。
日本全体におよぶ破滅的な危機、あるいは世界への大きな災害が、ここ一番、覚悟を決めて決死の作業をしてくれた勇気ある人たち、そして、それを陰から守護してくれた日本の神々様のおかげで、なんとか回避できたのだと思った。そして、そのことに改めて深く感謝の気持ちが湧いてきた。
そしてワールドメイト会員の自分としては、原発処理をする人々を守護してくれるように神様に祈るしかできなかったけれども、これからは被災地の復興がどんどん進むようにワールドメイトで祈っていきたい。
かなり長くなったけど、最後に今年の7月10日に放映された吉田所長へのインタビューから、内容を少し紹介して終わりにしようかな。
東京電力福島第1原発前所長の吉田昌郎氏が11日、ビデオ映像で語った発言の要旨は次の通り。
私どもの発電所の事故で、本当にご迷惑をお掛けしている。深くおわび申し上げたい。
(撤退問題が議論になっているが)私が考えていたのは、発電所をどう安定化させるかということ。そんなときに現場を離れては絶対いけない。原子炉を冷やす作業をしている人間は撤退できないと思っていたし、本店にも撤退ということは一言も言っていない。
われわれが離れ、注水ができなくなればもっとひどく放射能が漏れる。そうすると、もっと放射能が出て、懸命に安定させようとしていた福島第2原発にも人が近づけないレベルになり大惨事になる。逃げられないというのは最初からあった。
そんな大変な放射能がある現場に何回も行ってくれた同僚たちがいる。私は見てただけ。
昔から読んでいる法華経の中に地面から菩薩が湧いてくる、地湧菩薩というところがあるが、そのイメージをすさまじい地獄みたいな状態の中で感じた。現場行って帰ってきて、もうヘロヘロになって、寝ていない、食事も十分でない、それから体力ももう限界という中で、また現場に行こうとしている連中がたくさんいた。その後ろ姿に、感謝して手を合わせていた。
3号機の水素爆発は、その時点では何が起こったか分からないという状態だから、これからもう破滅的に何か起こってくんじゃないかと思った。あれだけのがれきが飛んできて、私を含む免震重要棟の人間は死んでもおかしくない状態だった。
(免震棟に残っているメンバーの名前をホワイトボードに書いておくようにと部下に指示したとされるが)最後まで残って闘ったのはこんな人間だぞってのを残しておきたかったのだと思う。
今後はいろんな形でメッセージを発信したい。一緒になった仲間の経験も伝えたい。体力が戻ったら、現場のために力を出したい。
(産経ニュース2012.8.12 10:55 )
このインタビューを行った薮原氏は、ビデオ上映後の講演で「原発職員の心が健康になれば廃炉に向けた作業スピードがアップする」と語ったそうだ。