ワールドメイトでは、深見東州先生がお祈りの大切さを幾度となくお話ししてくださるから、ワールドメイト会員は祈りの力のスゴさを体験した人が多い。
お祈りは、はたから見ると何もせずに念じているだけに見えるので、関心がない人からすると、お祈りなんて意味がないように言う人も多い。
でも、そんな人でも、この前のパリの連続テロのような悲惨な事件が起きると、PRAY FOR PARISということで、手を合わせる人もいたんじゃないかな。
悲劇が起きた時は、普段は祈りなんてしない人でも祈りたくなるものだ。そういう極限状態のような場面になると、人間の眠れる本性が出てくるのかもしれない。
こんな悲劇が二度と起きないようにと祈りたくなるし、亡くなられた方の冥福と残された家族のことを思って祈りたくなる。
だから、人間に祈りが必要な事を、祈りに救いがある事を、本当はみんなどこかでわかっているのだと思う。
それで、どうせお祈りするんだったら、PRAY FOR PARISの時のように、純粋で真摯な気持ちで毎日祈っていると、本当に素晴らしくなると思う。
祈っても同じだからという人は、単に祈り方を間違ってるか勘違いしてるだけじゃないかと感じている。
ワールドメイトに入会して、はじめに思ったのは、お祈りってこんな風にするのかというものだった。それはちょっとした衝撃だったし、自分で考えても、決して気がつかないことだと思った。
それで、ワールドメイトに入会してだいぶたった今でも、気持ちが緩んでるときとか、楽しくてハッピーな時は、祈りに身が入らなくて忘れてしまってることが多い。
お祈りは、緊張感があるときとか、問題がある時の方が真剣に祈れることが多い。だから、時々辛いことや大変なことが起きて、祈りの大切さを改めて感じさせられ、真剣に祈るようになることが多い。
幸せすぎると神様を忘れてしまって、お祈りをする気持ちにならないんだろうね。ワールドメイトに入会する場合も、多くの人は何か問題を抱えているので入会しようと思ったのかもしれないし。
そう考えると、幸せな時は神様を忘れているから、だんだん衰退へと向かっていき、いよいよ行き詰まって神様にしっかり祈り始めると、また、運気が良くなっていくという繰り返しをしているような気がする。
つまり、祈りがまだ本物ではないということだよね。
幸せだろうがそうでなかろうが、いつも深い祈りを絶やさずに入れるようになりたい。深見先生のように神様と仲良しになれる人は、そこができているし、まったく違うのだろう。
お正月に、ワールドメイトで深見先生の生い立ちのお話を聞いていると、深見先生があれだけ祈りの達人になられたのは、小さい頃の劣悪な環境や信仰に対する迫害があったからなんだなと感じた。
そんな辛い環境の連続だったから信仰の力に頼るしかなく、徹底して祈りが極まり乗り超えることで、神様への不動の信仰心が確立されたのだろう。だから、今は誰もかなわないスゴい人になることができたんだと思う。
深見東州先生にはそれだけの大きな使命があるからだろうけど、人智では理解できないような、そんな試練が神様の大きな愛だったんだと思う。